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              1994    S.WATANABE

              1990    W.SOZANSKI

1980      1979    OTHERS     BIBLIO|TEXT

BIO   2022  THE NOW IS     寿限無寿限無

Private Collection, Canada

^ FS 10/1998

Face Sutra 3_1999

^ FS 3/1999

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^ FS 4/1999

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^ FS 1/2000

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^ FS 2/2000-1

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^ FS 2/2000-2

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^ FS 5/2000

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^ FS 7/2000

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^ FS 1/2001

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^ FS 8/2002

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^ FS 1/2003-1

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^ FS 1/2003-2

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^ FS 5/2003-1

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^ FS 5/2003

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^ MIZUMA ART GALLERY

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^ FS ON CANVAS

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^ FS2016/10/31 CANVAS 12"x12"

ABOUT
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^ FS2003/11 CANVAS 12"x12"

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^ FS2003/10 CANVAS 12"x9"

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^ FS2001/02 CANVAS 6"x4"

ABOUT

It's All About The One Piece

Kariya owns "the now is", which is the keyword for all his works. 

He focuses on what the essence of what he thinks came from. 

He concentrates his thoughts on wondering what the torii (gate) that came through this material world was. That is what he is aware of, and what he is aware of is what he focuses on. And it's about millions and trillions of other things that make up our actions. 

Applying this law of thinking, Kariya owns "the now is", and at the same time "the now is" owns everything that surrounds Kariya. Kariya introduces this law into every corner of the artistic production system.

His art is the story about that one phrase what it tells, when it shows, why it reveals, who it speaks, which it goes, and how it speaks. It is about the appearances through with the materials, objects, subjects, occasions, places, times, chances, changes, choices, and on. 

 

The composition is about the reference to its each meaning of each word what it stands to what. It is to focus “THE”, to proceed “NOW, and to appears “IS”. Then, "IS” becomes reference to “NOW”, and so on. It is to contemplate beyond his physical writings to focus.

It links to its composition how it produced to get this life with all events, objects, bits and pieces, people, and else.

 

While trillions of others proceed his writing follows as is together, simultaneously. Three words convey a sense of immediacy and the present tense, in which Kariya experiences the presence is creation of each work.

 

This work “Seed Sutra,” presented in this exhibition, is comprised of numerous small fragments of seeds that the artist has marked his signature writings, daily. Kariya began working on this series in 1984 and has continued production on it ever since, with many interim pauses. The total work is believed to now amount of 1,051,188 pieces, as of 12/31/2018.

MOMA PS1Kariya has exhibited early year at the "Sound Show, special project: Meditation" 1979. Exit Art "Sutra", 1989. ICA Philadelphia "Sutra: One thing in everything: everything in one thing", 1990, then follows various other museums and galleries.

 "Sutra", sanskrit; meaning literally thread or string (to bind the pages of book), sacred code or measuring line.

GALLERY
日本語

ABOUT

「ひとつの/無数に遍在する/それ」

 刈谷は、長年をかけて「経」をテーマに作品を制作しています。一日一握りの種子(豆粒)に「the now is」いう3つの言葉を書き込んでいくという今回の作品「種子経」は、1984年から制作が開始され、途中で何度か中断しながらも続けられてきました。その量は現在までに凡そ25年分になると言います。

 注:種子記述量は2023年12月31日現在1,126,737粒。

 彼独自の経である「the now is」という言葉について刈谷は、「the now is」とはbe here nowではない。時空間的でのここ/あそこ/これ/あれといった限定のそれではない。では何か?という問いのルーツという。朝、目がさめると云うことが「それ」なのだ、生を「また」「繰り返し」「学べ」なの「である」。その繰り返しが写経すると云うことなのだろう。

 

 私には「その現在なり」を「だが、しかし、そうではない」を繰り返すお経が「the now is」 を「楽しめよ」という音波として伝わる。

 目を覚まし、生き始めたらその波動を楽しめや、と。刈谷の写経は、刹那としての「今」を確認する作業ではなく、「今」とは「在」ること、輪廻転生がその内で続いていることを体現しています。祈りそのものといえる彼の作品は、明日何が起こるかわからない世界で生きる私たちに、切実さを持って響くのではないでしょうか。刈谷にとって祈りとは、「無数に偏在することごとくの、そしてひとつの、宇宙の均衡」だと言います。

 

東京アートビート *再編12/31/2023

It Is All About The One Piece,
And Millions of Others

「ひとつの/無数に遍在する/それ」


 今作品は作品を透明な概念に見立てて設定されている。媒体は透明板で裏側がある。裏側は表面性を裏付ける風には定着されていない、差し替え可能な設定という操作のイリュージョンが隠されているという装置である。

 人間はアプリオリ(刻み込まれた固定概念情報=先入観)によってモノを見るという刷り込みの操作が脳裏に刻印されている。そのアプリオリを背景に、眼前に見るイリュージョンを現実、真実であると信じ込む(表面として読み取られる)のである。信じ込みが現実化する仕組みが提示されるのである。

 作品はものの見え方という習性グリッドが、透明板の後ろに配置された装置である。表面は実は、変化しないもの、それ以外のコトを含まない面であるはずなのだが、そうは見させられないはずだ。透けてみえる裏側という背景に制作手順の垢「時の刻」が刻まれてあるからだ。観客は表面を構成する背景を頼りに面の表「おもて」を読み取るのである。表面性を成立させる背景という仕掛けである。真実はその裏側の設定に依存されている。だがその仕組みに気付かされず、見え方の表面を真実と読ませられる仕掛けである。

 作品は、このからくり、観客自身のアプリオリの存在前提を問いかける装置である。この装置は異なる視点を提示する表面なのである。

だが?しかし、はてさて、これが、アプリオリになるとしても、それは、読まれる必要を求めているものでもない。加えて、それは作家も含む観察者の元より勝手気ままな果てしなく透明な無限性の視点展望の風景なのである。

 今作品は「種子経」シリーズの流れから写経の形式を展示法の設定として採用してある。


 制作プロセス上での作品とはひとつの製作作業の原風景の場である。
ひとつひとつの作品は即興で制作され感性を伴なう生活行為の現場作業の風景画である。部分の不完全なイメージは全体を構成する機能であり個人表現の不可欠生態形の痕跡である。ぶっつけ本番の思いつき、迷いの痕跡の記録画である。過ち、ヤリ直し、修正、くり返しの傷に観客は出会うだろう。近づいて目を凝らして見えるものについてはそうである。全体として展望される一点一点の作品断片は、単なる絵画のシミ、滴りとして設定された絵画である。

 

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インスタレーション
 

画廊入り口

 


 「横長バナー」

 先ず画廊最初の入り口脇に大画面横長に引き伸ばされた写真記事を元にしたバナーが展示してある。アフガニスタンの相次ぐ米軍の爆撃で殺された遺体がチャリカー村民たちの前に置かれ、お祈りしている写真映像である。バナー横には額縁に収まった元記事作品が配置されている。そして顔が切り取られ、数字が施された作品は画廊の横壁に配列された「顔経」のイメージへと誘っている。

 作品「種子経」
 主画廊入り口に進入すると、手の平を拡げた四角の透明板に貼られた点画のような平面から始まる。(3〜6点の1999年代初期の頃の顔経作品)

 一点に近づき、集中し、よく見ると透明板に文字が書かれた模様のようにも見える豆粒の群が、透けた裏側に文字がビッシリ刻まれている、壁画のようなイメージを背景に浮かんでいるような表面である。
 同じように文字が書かれた種か豆粒のようなものは直接透明板に貼られている。その裏側は透明板を挟んで透けて見える。
関連性がありそうでなさそうな背景は差し替えなのだろうか?置き換えができそうな?謎々のようなものである。


 

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左側の壁、通路を挟んで右側の壁


 先ず左横の壁面には同間隔で縦に十列、横に三列、豆粒大・中・小のサイズが入り混じる顔が乗った透明板の点画が並んでいる。これらは観客自身の認知できる顔探しの衝動から始まるかも知れない。そして、彼らの表情や向き、目の方向や配置に物語を走らすかも知れない。それらは、継ぎ足されたペーパータオルのような、浮き出しの紙に、穴が空いてたり、豆粒大の型取り、文字、記号、矢印、数字などが入った裏側が背景として設定されている。

 もう一つの部屋に向かう相対する壁には、穴の空いた板状のものが交互に縦に並んでいる。その穴は向こう側のイメージを通している。それらの穴の見え方は、もう一つの小さな窓のようにも見えてくるかも知れない。その為の穴なのか、点滅するモノクロ的色彩や謎のイメージが混在するのである。謎に答えるのは観客の潜在性・アプリオリに基づくイリュージョン、さもなくば意味ありげな単なる穴あきの画像である。

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正面に相対する壁

 正面相対する壁に68枚の大小異なる折り重なった透明板の上にうねりくねった途切れ途切れの点線をイメージさせる一本の連続する線が飛び込んでくる。
それは神代文字の「いろは」に似たうねりである。近づくとそれらは、例の種子の群である。部分のそれは、特定のルールで配置され、バラバラ、くっつけたり、構築的だったりの表情である。


 薄く透明な膜の背後に、トレーシングペーパーのドローイングが透けて見えている。部分でみるそれらは相対する壁の80点の点描画のスケールを変えたズームアップでもあり、ひとまとめにも見えてくる。
白で消されたり、書き加えや書き直し、番号などがそのままという形で残されている。これらの落書きのようなシミ、そばかすのような痕跡そのままは、制作作業現場の注意書き、支持表示や個人的メモの類の「裏方のもの」。


 これらは通常は表には出さない隠したり、隠されるものである。
子供が土足で清められた場を無邪気に走り抜ける現実の無作法をのぞかせるこの手法は…何を語るのだろうか。もっぱらが、表には出ない、顧みられることのない言葉やその時限りの線や矢印、丸囲いたちへの打ち捨てられる見えない存在霊への鎮魂なのだろう…。*「これらは、世界存在とのバランスの返還イメージによる返例なのである。宇宙のバランスから始まっているのであるから、その運動に還元組み込まれるイメージの実践なのである。」*作家

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正面の壁


 正面の壁
 横に8列、縦に10列並べられたその一点一点はシリーズとして連続している。遠くから見ると図像のドローイングのように見え、
近づくと盲人が読む点字にも見えるかも知れない。もっと近づくと、ソレらの種子は様々な法則で置かれ、数えることが目的の線、順番の修正、統計、丸囲いに四角、重なり、矢じるし、数字、記号やらが、自由奔放に、文字封印された種子が引っ付いている。透明な表面の裏側に幾何学的図形、デタラメ図、素描なぐり書き、図面のような、メモ、およそあらゆる可能な裏地が透けて見える。ソレらは表面の透明な板を挟んで置かれているという設定である。裏側は何にでも変えられ、裏側が無ければ透けた壁の色、その構造を示す設定が相対する壁に見つかるであろう。それらは一つの側面としての見え方なのである。穴さえもが捏造である、暗示でさえも、創造という名のでっち上げ、イリュージョンでさえもが。

 

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小さな部屋の壁


 そして小さな部屋の壁
 メインギャラリーの間を通過して左手の部屋。ここには三方の壁一列に、大小異なるサイズのキャンバスに規則正しく貼られた顔の点画(種子経の一部として連続)作品が並んでいる。


 ここでは先ず、第一に自分が知った顔を探すという行為に気付かされだろう、居るいる、これ知っている、あれこれ誰だっけと。だが、コレを見ながらつくづく思うに、種子経にもそれぞれの表情があるように、そして文字が顔にさえ見えてきそうな錯覚を覚えるであろう、これと逆に整然と並べられた顔の連続がお経にさえ見えて来るかも知れない。顔は歴史を語る経文である。これらは文字である。これらは一期一絵の「書」である。それらの身勝手な解読によっては楽しむことも悲しむことも出来る経文なのである。
 

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茶室の部屋


 茶室の部屋。作品の写真ファイルとビデオスクリーン。制作の途上、作品ディテールなどが閲覧出来る間。
 

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作品の骨子

 

 この世に無駄なモノ、役に立たないモノ、間違ったモノなど存在しない。

チリ・ゴミと呼ばれるモノ、糞、悪は、美・価値・名誉・崇高などと名指されるものと同等であり、無くてはならない絶対のモノである。だからそれらは存在する。それらが在るということが、存在の系の要として不可欠だからである、存在の異なった側面の現れとして、それぞれがそれぞれを補完し合う存在の機能として在るのである。不要なモノであるなら存在しない。


 この三次元下でのソレは形あるモノだけではない。思いも、感情も、勘違い、錯覚でさえもが三次元下での「人工のでっち上げ」である。これら諸々の三次元下での機能すべてを私は「在」いまと呼ぶ。それを理由に「存在価値のないと呼ばれる」モノが捨てられない。小さな気がかりやチリが「唯一絶対」の部品だからである。今回の展示は、それら通りすがり、矢印や、間違いや、試行錯誤、誤りの跡、そのままを裏方に配した。それらが透明の狭間から、かすかに見えるように。何故そうなのかのヒント作用の波働として。

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 作品は「経」、スートラ、糸、または物象概念の綴じ紐である。この三次元物象の仮想世界概念を作家の生活を端りとし、行き当たり次第の寄せ集めを一本の紐にたぐりよせ展望するのである。この現象世界を検証する独自「経文」の言意は旧約聖書、モーゼが神名の返答「われ、今在し昔在し後在しもの」、仏典の「ナモ、アモ、ダボ」、作家臨死体験時彷徨の「the now is」三文字概念である。この言意構造と存在、記述媒体オブジェ、制作プロセス関係関連性、それらの同時性が作品化に至る、創造原理元型の雛形が出来上がるのである。存在とは本来、不生不滅、無名無限、匿名である。言わば空虚を物象世界に説明しつづける矛盾の実践が「the now is」三文字記述行為なのである。

 記述する経文「the now is」の一連作は初頭「一句蓮経」と呼称した。実践行為は1977年の渡米時の機上、言語構造も問わず英語圏で始めたまま用いている。以外にはドイツ語圏とフランス語圏で用いた直訳文が用意されている。和訳では「是現在即」「是現在」「是今即現在」「是在即」とメディウムにより変化多様で、原則として定めていない。筆記用具は筆、ボールペン、鉛筆、鋭利なモノ、ディジタルペンなど記述可能なもの全てを用いている。

 作品とはこの三文字をいつ、どこで、何に、どの方法で行ったか、如何なる縁に寄るのか、などのモノとの出逢い関わりが主で制作手法に反映する。そのものの有りさまと制作の手法とが現在一致、同化が趣意である。作品とは従って、その時の背景を伴った記述行為の記録風景であり、当時の生き様を描く写生であり、世界存在同時三文字時刻記述実録の写経となる。

 この概念と行為の特徴はそのツールの三文字「the now is」が付され蓮らなり甚大な量の記述の山が陳列される形相にあっても、記述されていることはたったひとつ「the now is」の三文字からなる「ひとつの詩」である。

 「経」いとは意図、普遍性、連続、繋がる、綴じる、元発元戻、ひとつにする、一箇所に手繰り寄せる、閉じる、派生、源、など

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蛇足


 作品「種子経」写経

 作品は一つの枠内に収まる限定性を表す。作品の寸法は作家の手のひらの寸法である。それはこの三次元の有限性基準値の「計り」を表す。一握分の数量=約100粒が量把握の目安である。今作品「植種経」は二段階目の作である。

初段階、種子への記述は基本的に一日の内に制作される、後に任意に選ばれた作品が「植種経」として20センチ四方の透明な板に貼られる。これが、新たに制作された今回展示の作品である。新たに種を蒔く、植える、また始まる、つづく波動を誘導する「植種経」と呼称された。


 この「植種経」は当初、過去の種子経作品の保存が目的で始まった。それに伴いオリジナルの写真記録などの同一イメージの再現が始まった。その制作途上に種子一粒一粒のアイデンティティ合わせの整理段階で顔経作品が関連して生まれた。当時、種子経の裏面として顔以外の数字又は任意のイメージらが並行して産まれてもいたからである。作品は既存作品を元とする更なる現在の記録でもあり意味の重なりを経ていることから写経作品と呼ばれた。

 制作のプロセスは人生であり、生きることの一歩一歩、一句一句連なる写経である。イメージの出典は夢、瞑想、記憶、過去のドローイング、制作時の生活の動きや思考のメモ殴り描きなどからである。

 小さな画面は作家の手の平で種子が生きて活動する場・領域である。近づき目を凝らしてみれば、試行錯誤、しがらみ、迷いデタラメなどが混在する画面、作家の抽象的な生き様の素描である。
 作品の裏側は取り替えが可能である。常に変転し続ける作家とこの世界を反映しその裏側が覗かれる。透明性が基本である、それは真実とは限らない。真実は時に居場所や名前を変えるからである。作品はソレ以外のものと共存し、ナゼそうなのかの疑問と思考を勝手気ままに展開するのである。

 作品は作家自身の波動を軽くする流動体である。作品の並べ替えは自由で常に変化し展示は如何様にも可能である。自由に無限に展開する。すべてに、ひとつに、疑問を投げ忘れ思い出し、一歩下がり、移り変わりを楽しむ映画の観客の立ち位置で設定を楽しみ、退屈も批判も無視も許容されるのである。

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 作品は二重構造を備え裏側という、イリュージョンの前提=バックグラウンドの存在を設定する。それは差し替えが効く。見えるものは見えかた次第で変幻する、変えられ操作される。ものの見させられ方、バックグラウンドに惑わされるイリュージョンの雲中に気をつけよ。そしてビジョンを得るのは、むしろすべての展示が終わった後、そ
の帰り道にボンヤリと、さもなくば、あなたが眠っている間の「在・いま」にやって来るのかもしれない。

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Rocket Attacks Attacks, Banner 4'x8'

It Is All About The One Piece,
And Millions of Others

"One/Omnipresent Uncountable/The”

 

  This work is set with the work as a transparent concept. The medium is a transparent plate with a back side. The reverse side is a device that hides the illusion of a replaceable setting that is not fixed in the wind that supports the surface.

  Humans have an imprinted operation of seeing things a priori (engraved fixed concept information = prejudice). With that a priori background, we believe (read as the surface) that the illusion we see before our eyes is real and true. It presents a mechanism for making belief a reality.

  The work is a device in which a habitual grid of how things are seen is placed behind a transparent board. The surface should actually be something that doesn't change, a surface that doesn't contain other things, but it shouldn't be made to look like that. This is because behind the transparent backside is engraved the "time" of the production procedure. The audience relies on the background that makes up the surface to read the front of the surface. It is a device called the background that establishes the superficiality. The truth depends on the setting behind it. However, it is a mechanism that makes you read the surface of the appearance as the truth without noticing the mechanism.

  The work is this karakuri, a device that questions the a priori existence of the audience. The device is a surface that presents different points of view.

But? But even if this becomes a priori, it does not call for the need to be read. In addition, it is a landscape of perspectives of endlessly transparent infinity that is arbitrary from the observer, including the artist.

 

  This work adopts the format of copying sutras as an exhibition method from the flow of the “Seed Sutra" series.

 

  A work in the production process is a place of the original scenery of one production work.

  Each work is improvisationally produced and is a landscape painting of the site work of daily activities accompanied by sensibility. The imperfect image of the part is the function that composes the whole, and is the trace of the indispensable ecological form of personal expression. It is a documentary image of the traces of a sudden idea and hesitation. The audience will encounter mistakes, repairs, corrections, and repeated wounds. This is the case with things that you can see up close and squint. Each fragment of the work viewed as a whole is simply a painting that is set as a stain or drip on the painting.

 

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Left, Right,  Across The Passage

 

Gallery entrance

  “Horizontal Banner"

  First of all, at the entrance to the gallery, there is a banner based on a photo article stretched horizontally on a large screen. It is a photographic video of corpses killed in successive US bombing raids in Afghanistan being placed in front of Charika villagers and praying. Next to the banner, the original article work is placed in a frame. The works with faces cut out and numbered invite us to the image of "face sutras" arranged on the side wall of the gallery.

  Work “Seed Sutra”

When you enter the entrance of the main gallery, it starts with a plane that looks like a dot painting pasted on a square transparent board with your palm outstretched. (3~ 6 Face Sutra works from the early 1990s)

 

  Closer to one point, concentrated, and if you look closely, a group of bean grains that looks like a pattern with letters written on a transparent plate floats against the background of a mural-like image with letters engraved on the transparent back side. It's a surface that looks like it's on.

Seeds with letters written in the same way are pasted directly on the transparent board. The back side can be seen through the transparent plate.

Is the seemingly relevant and unlikely background a replacement? Could it be replaced? It works as a mystery.


 

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Facing Front Wall

 

  A single continuous line that resembles an undulating dotted line appears on the 68 transparent panels of different sizes folded on top of each other on the facing wall.

  It is a swell that resembles the Japanese ancient Godess alphabet "Iroha". Up close they are the seed clusters of the example. The parts are laid out according to specific rules, and are disjointed, glued together, or constructive.

 

  A drawing on tracing paper is visible behind a thin, transparent film. They are also zoomed in by changing the scale of the 80 pointillist paintings on the opposing walls, and they can be seen as a whole.

Some have been erased with white, some have been added or rewritten, some numbers have been left as they are. These graffiti-like stains and freckle-like traces are "behind-the-scenes stories” such as notes, endorsements, and personal notes at the production site.

 

  These are things that are usually hidden or unkown.

What does this method, which shows the real rudeness of a child innocently running through a place cleansed with shoes on... what does it say? Mostly, it seems to be a requiem for the unspoken, neglected words, temporary lines and arrows, and the unseen spirits that have been thrown away by the circles... * "These are the return examples of the return image of the balance with the existence of the world. Since it begins with the balance of the universe, it is the practice of the image that is reduced and incorporated into the movement." *Artist

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Front Wall

 

  Arranged in 8 rows horizontally and 10 rows vertically, each piece is continuous as a series. From a distance it looks like an iconographic drawing, and up close it might look like Braille for the blind. As we get closer, the seeds are placed according to various rules, such as lines for the purpose of counting, correction of the order, statistics, squares in circles, overlapping, arrowheads, numbers, symbols, etc., freely. , with letter-sealed seeds attached. Geometric figures, random drawings, scribbles, drawings, notes, just about any possible backing can be seen through the back of the transparent surface. It is a setting that they are placed across a transparent plate on the surface. The back side can be changed to anything, and if there is no back side, the color of the transparent wall, setting that shows its structure will be found on the opposite wall. They are views as one aspect. Even holes are fabrications, even suggestions, fabrications in the name of creation, even illusions.

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Small room Wall

 

  The room on the left after passing through the main gallery. Here, along the walls on three sides, there are stipple paintings of faces (continuous as part of the seed sutra) regularly pasted on canvases of different sizes.

 

  Here, first of all, you will be reminded of the act of searching for a face that you know, who is there, who you know. However, when I look at this, I really think that each seed sutra has its own expression, and you will have the illusion that the characters can even be seen as faces. You may even see it in the sutras. Faces are sutras that tell history. These are letters. These are “calligraphy” of one picture in one period. They are sutras that can be enjoyed or saddened by selfish decipherment.

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Tea room

 

   A room in the tea room. Photo files and video screens of the work. In the middle of production, while you can see the details of the work.

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Not This, Neither That ... 

  There are no useless, trash, or wrong things in this world.

Things called dust and garbage are equivalent to things named value, honor, and sublime, and are absolute things that cannot be done without. So they exist. This is because their existence is indispensable as the cornerstone of the system of existence, as the manifestation of different aspects of existence, each as a function of existence that complements the other. If it is an unnecessary thing, it does not exist.

 

  In this three-dimensional world, things aren't just tangible things. Thoughts, emotions, misunderstandings, and even illusions are things in three dimensions. I call all these three-dimensional functions 'at' and now. For that reason, I can't throw away things that are "not worthy of existence". This is because small concerns and dust are the “only and absolute” parts. In this exhibition, we placed the passing arrows, mistakes, trial and error, traces of mistakes, as they are behind the scenes. So that they can be seen faintly through the gap of transparency. As a wave action of the hint effect of why it is so.


 

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  The origin of the work is the meaning of the binding string "Kyo" or "Sutra".

It is an attempt to examine the state of this three-dimensional world, the world of phenomena, starting with the life of an individual, and drawing everything one can think of into a single string. Kariya's sutras, which express the structure of this phenomenal world, are hinted at by the three characters of the Old Testament: "exist now, exist in the past, and exist later."

 

  "Namo Amo Dabo'' in the Buddhist scriptures "Is the now'' in a dream after a near-death experience at the age of 21. This grammatical structure, the simultaneity of all beings born between the mediums in which the description is given, the system of relational relationships, and the archetype of the creative form whose work is the simultaneous life of the production process practice were completed. Its name originally means Immortality, that is, Anonymous. The meaning of expressing that anonymity in this material world is the three characters "is the now” or “THE” is now.

  The series of written sutras "the now is" was initially called “I-kku Rengyo" or “One Phrase Sutra”. The practical act is used as it was started in the English-speaking world, regardless of the language structure, on the plane when he traveled to the United States in 1977. In addition, literal translations used in German and French-speaking countries are available. In the Japanese translation, there are variations depending on the medium, such as “THE present moment'', “present moment THE”, “the present MOMENT”, “the PRESENT moment”, and “there IS the moment''. All writing utensils such as brushes, ballpoint pens, pencils, sharp objects, and digital pens are used.

  When, where, what, how, and what kind of connection do you have with these three characters? The intention is to assimilate the current state of the object and the method of production. Therefore, the work is a recorded scenery of the act of writing accompanied by the background of the time, a sketch depicting the way of life at that time, and a copy of the three-letter time description of the simultaneous existence of the world.

  The feature of this concept and action is that even if the three letters of the tool, “THE is now”, are attached to it, and even if it looks like a huge amount of descriptions such as lotus, there is only one factor that is described, “THE It is "one poem" consisting of three characters "now is".

  The meaning of the word “sutra” evokes universality, such as continuing, connecting, returning from the origin, uniting, drawing to one place, closing, derivation, origin, remembering one, etc. This is because it contains the meaning of

The purpose is to develop these three-letter sutras in a number of ways and media, and to examine the illusion of their ubiquitousness through landscapes and question-and-answer sessions.

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BrahBrahBrah

 

Copying of the work “Seed Sutra"

 

  The work expresses the limitation that fits within a single frame. The size of the work is the size of the artist's palm. It represents the "scale" of this three-dimensional finite reference value. A handful of grains = about 100 grains is a guideline for grasping the amount. The current work, “Seed Planting Sutra” is the second stage work.

In the first stage, the description on the seeds is basically made in one day, and later the arbitrarily selected works are pasted on a 8 inch (20 cm) square transparent board as a "seed sutra". This is the newly created work for this exhibition. It was called the ”seed sutra'' that sows a new seed, plants it, starts again, and harmonizes the frequencies.

 

  This "seed sutra" was originally started with the purpose of preserving past seed sutra works. Along with that, the reproduction of the same image as the original photographic record began. In the middle of the production process, the Face Sutra work was born in connection with the organizing stage of matching the identity of each seed. This is because, at that time, numbers or arbitrary images other than faces were born in parallel as the reverse side of the seed sutra. The work is also a personal life activity record based on existing works, and it is called a sutra work because it has undergone overlapping meanings.

The process of creation is life, and each step of life is a series of sutras. The sources of the images are from dreams, meditations, memories, drawings of the past, and memo drawings of life movements and thoughts at the time of production.

 

  The small screen is the place/area where seeds live and act in the palm of the artist's hand. If you take a closer look, you will find that it is an abstract sketch of the artist's way of life, a mixture of trial and error, fetters, and hesitation.

  The back side of the work can be replaced. Reflecting the ever-changing artist and this world, you can see the other side. Transparency is fundamental, it's not always true. Because the truth sometimes changes its place and name. The work coexists with things other than that, and develops questions and thoughts as it pleases.

 

  A work is a fluid that lightens the vibration of the artist himself. The arrangement of the works is free and always changing, and the exhibition can be done in any way. Expand freely and indefinitely. All in all, one forgets to question, remembers, takes a step back, enjoys the setting from the standpoint of the movie audience who enjoys transitions, boredom, criticism and ignorance are allowed.

 

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  The work has a double structure and the back side, which is the premise of the illusion = the existence of the background. It works as a replacement. What you see changes and is manipulated depending on how you see it. Beware of distractions, in clouds of illusion that distract you from the background. And the person who gets the vision may rather come vacantly on the way home from the exhibition after all the exhibitions have ended, or come "in the present" while you are asleep.

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